アダムとイブの日記

アダムとイヴの日記 (福武文庫)

アダムとイヴの日記 (福武文庫)

創世記のアダムとイブが書いた日記という仕立てで、前半がアダム、後半がイブになっている。
それぞれに視点の違い、文章量の違いなど おもしろい。
特に、イブは アダムがどう思って、そういう態度をとったのか?などと考える(思い込む)のに、アダムは イブがどう思うか、どう感じるかなど、そういうことは考えたりしないということ。
どう言ったか、どういう行動をとったかは見ていても、それに隠された意味を見ようとはしないのだ。
少し長くなるけれど、新しい生き物に名前をつけるという同じことについてのアダムの日記とイブの日記から引用してみる。


私はどうも機会にめぐまれず、自分で物に名前をつけたことがない。あの新しい生きもの*1は、何にでも手あたりしだいに名前をつけてしまい、こっちは抗議のくちばしを入れるひまさえない。そして、いつもあの弁解の言葉がはね返ってくる。だって、そんなふうに見えるんですもの、と。


それでわたしも、できるだけいろいろなことで彼のために役立つように努めている。そうすれば彼の関心をますます高めることになるからだ。この二、三日のあいだ、私は物に名前をつける仕事をみんな引き受けて、彼の手をわずらわさぬようにした。彼にとっては大助かりのはずだ。なぜって、彼はそういう仕事にはまったく才能がないからで、どうやら大いに感謝してくれているらしいのだ。もともと彼には合理的な名前を考え出して自分の面目を保つなぞということはできはしない。しかしそういう彼の欠点にわたしが気がついているなぞということは、わたしも彼に悟らせないようにしている。だから新しい生きものに出遭ったときは、いつでもわたしがすぐに名をつけてしまい、彼がぐずぐずして自分の欠点を気まずい沈黙でさらけ出さずにすむようにしてあげるのだ。


もちろん、男女といっても個人差があるだろうけれど、両者のあまりの違いに笑ってしまった。

*1:イブのこと。